窓ガラスを叩く雨音で4時過ぎに目が覚めた。
物干棹は予想どおり地面に落ちていて、
小さな鉢も二つ転がっていた。蕾を膨らませていた薔薇の鉢も。
それでも一輪しっかり開花していた。
嵐の日には、この子、Mana 朗子を写したくなる。
去年の台風の時もそうだった。
(続き)
大きな姿見を、彼女と一緒に写すために、
薄暗い廊下に運び上げた。
普段は玄関脇に据え付けている鏡だから
埃を被っていたが、敢えてそのままにして撮り始める。
限られた光と薄汚れた鏡が
嵐の日に相応しいざらついた画像を作り上げた。
十代の終わり頃、清音より濁音に惹かれていたことを思い出す。
憧れていたのはデヴィッド・ギルモアのヴォーカルとギター。
ロックやブルースから濁音の美しさを知ったと言うべきか。
窓の外の雨風と
美しい彼女のざらついた画像が古い歌の幾つかを思い出させてくれた。
高音の美しい声として記憶していたジョーン・バエズ。
しかし、"Diamonds and Rust" 聞き返してみたら、
彼女もまた清音とは呼びにくい声だったことに気付く。
玉のように澄んだ声も
生きていく内にいろんなものを取り込んでいって
誰のものでもない自分の声になっていくのかもしれない。
天使の声は私には縁のないものだった。