先日の記事 "Yuzuki: Sudden transparency" の最後で触れた
ゆったりした白いブラウス。
こんな感じで、首を傾けて見詰められると
今がいつの時代なのか 私は何をしているのか
分からなくなる。
(続き)
無音で際限なくスライドしていく画像。
繰り返し眺めている内に時間の観念を失してしまう。
それに、何かを問いかけられているような気分になる。
それは誰の声でもないし、その時々で違って聞こえたりもするが、
なぜ…?と訊かれているような気がしてならない。
何を答えたらよいのか_想像もつかないが。
片付け業者が入る前に上の本を見つけた。
多分、母のものなのだろう。上巻一冊だけで続きは見つからなかった。
仙花紙の単行本。
中央図書館の雄鶏みすてりーずや新樹社のブラック選書を思い出した。
初読時のXの悲劇、Yの悲劇、災厄の町…等はこんな感じのページだった。
細雪を読んだのは高校一年生。
やはり中央図書館所蔵のものだが、それはもっと新しい版だった。
細雪については母と話した漠然とした記憶がある。
しかし、この本のことは聞いていない。
一方、父の書架には、旧字旧仮名の文庫本で「武州公秘話」や
岩田専太郎の挿絵入り木枯し紋次郎の「小説現代」があったのに、
私が家を出た後のリホーム工事の際にでも処分したのだろう
何もかも無くなっていて、
棟方志功装丁の「鍵」を見つけたぐらい。
細雪の内容も殆ど忘れている。
縁談がうまくいかない美しい娘と奔放で対照的なこいさん。
そんな記憶しか残っていないのは高校一年生の読書だったからか。
最近外出時に読んでいる Sir Kazuo Ishiguro "An Artist of the Floating World" の
世界にも重なってくる。
毎日の出来事から極力目を逸らしていて、
ふと思い浮かべた美しいものだけを追いかけている。
私の日常は、記憶の意図的な混濁の中にある。
映画でも観に行くか
そう考えて、タイムテーブルを幾つか調べてみた。
しかし、辿りつくまでの道順を考えているだけで、面倒に思えてくる。
先々週、所用で出かけた折に立ち眩みがして、
倒れかかった体を支えるために押しつけた右腕、上膊部には
陳列棚のフックによる赤い跡がまだ残っている。
長袖でなければフックが刺さっていたのかもしれない。
そして、もう今は半袖。
そんなことも外出を渋る気持ちにつながっている。