頂き物の美しいポストカードと共に。
阿呆船と Fortuna 。いずれも浅野信二氏の作。
ドールとの撮影も同時に快諾していただいた。
(続き)
今まで意識せずにきたが、
浅野氏の作品の多くは、風景画に分類されるようだ。
むろん、その風景はどこにも存在しないのだが。
細密に描きこまれた画面の片隅にいる人物や黒い人影を通して、
不思議な広がりを持った風景を目にすることになる。
幻想の細部に惹かれていたことは、これまでも自覚していたが、
ギャラリーでお会いして、色々な方と話されるのを耳にしながら、
画面全体としては一個の風景画だったのだと納得した。
日中に出歩くことを殆ど止めてしまったような私だが、
日の暮れが早くなって、人の顔が確とは判別できない時分になると
外の風に吹かれてみたくなる。
明け方は東に向かい、暮れ方は西に向かって歩き出していたことに
今頃になって気がついた。
薄暗い部屋の中に一日いて、隙間からの光を眺めているからだろうか。
黄昏の戸外でも、光のある方を見詰めていたようだ。
しかし、傾いた陽光の中で捉える風景は
物語の場面や遠い記憶と綯い交ぜになっていて、
目の前にあっても、夢の中の風景のように、一度きりの切なさに溢れている。
今日見ていた風景には
いずことも知れない私鉄の乗換駅の幻が重なっていた。
夢の中ではいつも、
その駅で誰かと会う約束になっていたり、
決められた時間の電車に間に合わなかったり、
ベンチに座ってただ酒を飲んでいたりするのだが。
写真に切り取られた風景もまた
現実のものとはどこか違っているのではないか。
繰り返し写真や映画で見た風景であっても、
実際にそこへ行って立ってみたら
何かが違っている。
私はいったい誰の目をとおして眼前の風景を見ているのだろうか。
ブログ中に出てきたポストカードの画像は
で詳しく見ることができる。
(阿呆船と Fortuna の画像は archive 2018 の中の 05 に収められている。)