カーテンを少しだけ開いてみた。
薄暗い室内に傾いた陽射しが入ってきて、この子の顔を僅かに明るくした。
この角度で、この時間に広角ズームを使えば、
ゴーストやフレアが現れるのを知った。
狭い部屋の中にいても夏の草原を思い描くことができそうだ。
(続き)
北杜夫の「幽霊」の一場面、
少年が墓地の中を彷徨う件を思い出していた。
両親、義父の墓参りが近い所為もあるし、
『スティッキー・フィンガーズ~ライヴ・アット・ザ・フォンダ・シアター2015』
でのミック・ジャガーを観ながら、
「小さな恋のメロディ」の墓地の場面を思い描いていた所為もある。
墓参りしても、そこに誰かがいるように感じられないのは
綺麗に管理された新しい霊園だからではないか。
ふとそんな考えに辿りついた。
小学生の夏休みに勝手に入って遊んでいた近所の小さな墓地は
緑に埋もれるようにして墓石が並んでいた。
私が現在暮らしている家の近くには、嘗ての入会地の山があり、
その北東と南東角の斜面には、地の人のものらしい小さな墓地が残っている。
北東の墓地には墓守の家もあったのだが、今はもう無い。
葛が絡み合い、折り重なっていて、墓がどうなっているのか
外からは窺うすべがないし、
無用の者入るべからずという札だけが、
今でも辛うじて読める位置に残っている。
墓地には夏の草いきれが相応しい。
静寂の緑の中には今を盛りとする命が溢れていて
亡き人の面影は、その中でまた新たになる。
光があって翳があり、
生きているものの中に死者はいるのだ。